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幕末の動乱を間近に控え、満開の桜の下、志を一つにする門弟友人総勢約40名がつかの間の平和に酔いしれた「百盃宴」

百盃宴の碑
ひゃっぱいえんのひ
更新日: 2017.01.08

三春郷土人形館裏側の裏通り、桜川を挟んだところに小さな碑文の石碑があります。
これは幕末の三春藩儒学者川前紫渓という人が催した宴会に因んで建てられました。

正面の碑文を郡山出身の幕府昌平校教授方安積艮斎が書き、題字を三春出身の絵師中村寛亭が書いています。
川前紫渓(神職名川前丹後)という人は、名を亀角、字を千攫といい紫渓は号です。
江戸末期の文化十四年、三春城下の生まれで、来光院(明治維新後は多賀明神に改名)という現裏町三春武道館辺りにあった、修験道の修験者(のち神官)から儒者になった人です。
百杯宴の碑文には、紫渓はこよなく酒と竹を愛し、そのため友人から多くの書画と杯を贈られることが多かったと記されています。
来光院に私塾を開いて、詞文より実学を基本とした水戸学派の流れを汲む学問を教え、多くの子弟を教育した事は有名ですが、中でも自由民権運動家、後の貴族院議長河野広中の師として「広中」の名を授けた人物として明治期に脚光を浴びました。

河野広中をはじめ幕末から明治初期にかけての三春は、三春藩内から、藩士・町民問わず、教養が高く、自由民権運動家を多く輩出した基盤の中に、三春藩校明徳や佐久間庸軒の庸軒塾、この来迎院が大きな役割を担っており、後に明治政府貴族院議長になった、自由民権運動家・河野広中の学問的素養の基礎は、紫渓より学んだとされ私塾化した来光院には、数多くの旧三春藩内外の自由民権運動家がその門を叩いています。幕末の安政四年旧暦四月五日、送られた盃が百個に達した事を記念して、満開の桜の下で、志を一つにする門弟友人あわせて、総勢約40名が集い宴会を催しこれを称して「百盃宴」としました。
穏やかで暖かな春の日差しを浴びて、幕末の動乱を間近に控えながらも、つかの間の平和に酔いしれたことでしょう。
今は訪れる人も無く、ひっそりとその石碑だけがありますが、世界に通じる三春人の更なる飛躍を期待しているのではないでしょうか。
進学・就職で郷里三春を離れる諸君!三春人の誇りと先人達の偉業を忘れずに、胸を張って羽ばたいて下さい。

施設名称
百盃宴の碑

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